2010年8月31日火曜日

懐かしき下町の商店街・おかず横町。


蔵前橋通りをJR線、昭和通りを通り抜けまっすぐ歩くと鳥越一丁目の交差点がある。この交差点を左折すると直ぐ右手に大きな「おかず横町」のアーチ式の看板を見つける事が出来る。ここが下町の商店街として有名なおかず横町の入口である。おかず横町とは全長230メートルの細長い約60件からなる商店街でそのほとんどが日用品を扱う店だ。歩いているとあっちこっちからとてもいい匂いが漂ってくる。まさに今晩のおかずになりそうな食材のオンパレードだ。自然に足の運びが遅くなり懐かしき昭和の時代をゆっくり楽しむ事が出来た。

2010年8月30日月曜日

明治45年創業の松坂象牙店。


妻恋坂から末広町の交差点を過ぎて、ぶらぶらと歩いていると右側に『松坂象牙店』があった。ここは象牙の専門店で明治45年の創業と言う老舗象牙店だ。ウインドウを覗くと装飾品ではネックレス、イヤリング、ブローチ、ペンダント、ブレスレット、指輪にその他、根付、印象、茶道具など全て象牙製品のオンパレード。見ているだけで楽しい。皆それなりの値段だが私でも買えそうな「みみかき」を発見する。長さにより2100円〜3000円と懐にも優しい。「耳かき」「みみかき」でも無く「美々かき」と箱に書いてある。これこそ明治から続くお店の粋ではないでしょうか。秋葉原に行った時には是非行ってみて下さい。(東京都千代田区外神田4丁目11-5)

2010年8月27日金曜日

秋葉原のミリタリーショップ。


立爪坂から蔵前橋通りに出て末広町方面に歩き出す。末広町と言えばもうここは秋葉原だ。秋葉原の路地を覗くと相変わらず沢山の人を認める事が出来る。昔の秋葉原は冷蔵庫や洗濯機等の白物家電販売が中心の街だった。その後はパソコン関係の店が多く出展し、ドンキホーテやヨドバシAKIBAの出展で更に街は変化している様だ。また今はメイド喫茶やフィギアショップ等も増え新たな秋葉原文化を生み出している様にも見える。そういえば10年程前は夜の7時、8時となれば人通りは極端に少なくなっていたが、今や10時でも11時でも人の数は変わらず、暫くすると眠らない街になってしまいそうだ。そんな事を考えながら歩いていると道向うのビルのベランダに戦士2名を発見した。どうも一人はこちらを双眼鏡で伺っている様子だ。「一瞬ドキッとする」こんな光景も昔の秋葉原には無かった。因にこの正体はミリタリーショップの看板(人寄せパンダ)の様でこの店はアメリカ軍だのドイツ軍だののミリタリーアクササリーを沢山売っているらしい。ただこの店には絶対入店しないだろうなと思いながら歩き出した。

2010年8月26日木曜日

立爪坂は地縛霊の居る階段?


妻恋神社の前の妻恋坂の中程を北に上がる短い坂が立爪坂と言う。名前は爪を立てて上がる坂という意味で、昔はけわしい坂であったと思われる。現在は坂の上と下の部分は石段になっている。また芥坂とも名づけられていて芥捨場が坂のそばにあったともいわれる。この坂に隣接して高層マンションが建っているがこのマンションの建築計画が持ち上がった時には近隣の住民からの反対運動が起こったのを記憶している。「高層マンション反対」や「ワンルームマンション反対」などの多くの看板が立ち並んでいたが、そんな中「ここは地縛霊が出る」と言う意味の看板もあった。地縛霊がいるから建築しない方が良いと言う事だと思うが、私にはその看板が珍しく興味をそそった。何度もこの階段を通っているけどまだ地縛霊に会った事は無い。

2010年8月25日水曜日

妻恋神社って良い名前。


イタリアンレストラン・サンターレを出て妻恋坂を左に折れると直ぐに妻恋神社がある。皆さん「妻恋神社」って良い名前だと思いませんか?因にこの妻恋神社の由来は、昔日本武尊が亡くなった妃を恋い慕いたもうたとの意を取って「妻恋明神」と号したとされています。またこの神社、夢枕で有名でもあります。夢枕とは枕の下に敷いて縁起の良い夢を見ようという縁起物の一つで妻恋神社の夢枕は江戸時代に使われていた版木から複製したとても目出たい「鶴亀」「宝船」絵柄だそうです。因にこの神社の所在地は神田明神と湯島天神の徒歩10分の丁度中間に位置します。だから毎年初詣はこの3つの神社の梯子となります。

2010年8月24日火曜日

妻恋坂のイタリアンは安くて美味しい。


湯島から妻恋坂を抜け秋葉原までは徒歩10分程だ。その途中、妻恋坂の手前にイタリアンの店「サルターレ」がある。このレストラン、妻恋坂の地名をとり私は妻恋坂のイタリアンと呼んでいる。確か5年程前にこの場所にオープンしたと記憶している。ただこの5年の内に沢山のファンが出来ていつも繁盛している。私もこの店の料理が好きで休みの日等には何回となく訪れた事がある。しかしいつも満席状態だ。昨日、この店の前を通ると珍しく席が空いている。迷わず即入店。このレストランは値段もそこそこで料理も美味い。そしてサービス(感じ)も良い。改めてメニューを見るとランチコースを見付けて、ちょっと贅沢に2980円成りのコースをオーダー。普通のランチコースと違い、魚料理は決まっていたが、前菜、パスタ、肉料理が幾つかの中からチョイスできる。連日30度を超える残暑が続いているので、喉に優しいトマトの冷製スープを最初にチョイス。「火照ったから身体がクールダウンしそうだ。美味い!」次にパスタと迷ったが何年振りかの「リゾット」を口に運ぶ。食べ放題と言う焼きたてのパンを口に頬張る。魚料理はスズキ、そして牛ステーキと続き、とてもランチメニューとは思えない内容だ。締めのコーヒーを飲みながら料理の余韻に浸る。思わずこの内容で「2980円は安い」呟いてしまった。写真は上から店の写真、私が食べた料理を順に紹介している。決してこの店から何ら宣伝料は貰っていないが、たまには奥様孝行に良いかもしれない。何せポケットにも優しい美味しい料理だから。

2010年8月23日月曜日

湯島のこだわりイタリアン。


湯島界隈には幾つかの美味しいレストランが在る。今まで紹介したのはフレンチ、天ぷら、うどんすき、蕎麦、魚料理と多種あるが、未紹介の店に昨年オープンして未だ訪れた事の無いイタリアンの『Cucina Italiana HARU』がある。ここのレストランは何回か予約無しで訪問し全て満席だったので今回は予約の上に友人3人と訪問する。住宅の中にぽつんと在るお店で、捜す目的が無ければ見つからない様な秘密のレストランと言う感じだ。お客さんの70%はコースでオーダーするとの事だったが今回は赤ワインとアラカルトで注文。「馬肉のカルパッチョ」や「白レバーのパテ」等を注文。オーナーシェフこだわりのしっかりとした味は逸品。日曜(休業日)以外は土曜でもランチメニューもあるとの事。お勧めします。(クッチーナ・イタリアーナ・ハル http://www12.ocn.ne.jp/~cucina-h/801.html)

2010年8月20日金曜日

向島散策の最後は生ビールで乾杯!


勝海舟像を見て歩き出すと辺りは大分薄暗くなってきていた。そう言えば墨田区役所の隣は、あの有名なウ◯コの様な造形物のあるアサヒビールのビルだった。暑い中を一日歩いた身体をクールダウンするのは冷たい生ビールが一番。今日の散策の終わりのご苦労さん会には最適の場所だ。隣接するビヤホール「吾妻橋」に入店する。運良く直ぐにテーブルにつく事が出来、冷たい生ビールを「ゴクゴク」と喉に流し込む。今日はめちゃくちゃ美味く感じる。空きっ腹だったので多めの料理をオーダー。運ばれて来たのが写真の料理だがどれも冷たいビールにピッタリ。店の外はもうすっかり暗くなっていた。

2010年8月19日木曜日

夕日の勝海舟像。


隅田公園を抜け浅草を目指す。前方に墨田区役所の立派なビルが見えて来た。「おやっ、何だあの像は?」と思い像に近づくとその正体は「勝海舟」だった。現在NHKの「龍馬伝」にも頻繁に登場しているが、この像は勝海舟が墨田区の本所生まれという事もあり、「勝海舟の功績を後世に残すために全身像を建てよう」のスローガンで「勝海舟の銅像を建てる会」と言う市民グループにより墨田区役所前のうるおい広場に建てられた。因に勝海舟さんは本名・勝驎太郎、幕末と明治の激動期に世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、坂本龍馬など多くの人材を育成した。西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城をとりきめ江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の礎を築いた人物なのです。像の前の夕日に照らされた墨田区役所のガラス窓に東京スカイツリーが映っている。流石の勝海舟さんも東京スカイツリー誕生までを予見していなかった筈。それにしてもこの勝海舟像なかなか美男子に出来ていました。

2010年8月18日水曜日

隅田公園の桜。


牛嶋神社と隅田公園はひとつの敷地にあると言っても過言ではない。牛嶋神社の境内を出るとそこは隅田公園だ。隅田公園は8代将軍・徳川吉宗が民衆にも花見が出来る様にと開放した場所で隅田川沿いにソメイヨシノ、シダレザクラ、サトザクラ、エドザクラなど700本以上が1キロにわたって咲く公園としても有名。昔の記憶(幼少の頃)で定かではないがこの公園の桜を見ながら隅田川で手漕ぎボートに乗った記憶がある。果たして流れのある隅田川に手漕ぎボート屋さんが在ったか怪しいが隅田公園には何回か遊びに来ていたのは事実だ。それにしても公園内は木々も豊富で池もあり下町のオアシスといったイメージでした。ここで昔からの疑問をひとつ。隅田公園や隅田川の『すみ』の字は『隅』で、墨田区の『すみ』の字は『墨』なのは何故でしょう?

2010年8月17日火曜日

牛嶋神社の撫で牛君。


見番通りを抜け言問橋東を左に折れ、隅田川を言問橋で渡ろうと歩いていると橋のたもとに古い石壁を見つける。石壁に沿って歩くと牛嶋神社を認めた。牛嶋神社は本所総鎮守として崇敬を集める立派な神社。慈覚大師が建立したと伝えられています。境内を歩くと大きな牛を見つける。因にこの牛さん、撫で牛と言って体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというもの。何故か無意識に頭をなでていた。

2010年8月16日月曜日

「三囲神社」のライオン君。


見番通りを浅草方面に歩いている右手に大きな神社を発見した。神社の鳥居に「三囲神社」とある。みめぐり神社と読む。昔々この神社を建てる時、土中より古いつぼを発見する。これを開けると老翁の神像が出て来た。その時何処からともなく狐が出て来て像の周りを三度廻ったと言われ、それで「三囲神社」となった。因に隅田川七福神の「恵比寿」「大黒天」も奉られる。皆さん写真をよくご覧下さい。神社には違和感のあるライオンの像を見つける事が出来ると思います。実はこの境内のライオン君、池袋三越百貨店の前に設置されていた有名なライオン君だったのでした。同店の閉店に伴い三越に縁の深いこの「三囲神社」に移設されたのでした。それにしてもこのライオン君。現役時代は沢山のお客さんを迎えていましたがリタイア後は人数は少なくなりましたが参拝の人々を迎える事になりました。

2010年8月13日金曜日

向島・見番通りをお客の態で歩く。


皆様「見番」て知っていますか?年配の方ならご存知でも若い人は知らないかも?辞書によると「見番」とは料理屋・芸者屋・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称。また、近世、遊里で芸者を登録させ、客席に出る芸者の取り次ぎや玉代の計算などの事務を扱った所。(大辞林)とあります。ここ向島の『向島墨堤組合』は昭和61年に芸妓組合、料亭組合、料理店組合が合併し見番(向嶋墨堤組合)として現在に至りますが、主な業務は料亭への芸妓の手配、料亭の予約手配、置屋、他花街の統括管理が主となるそうです。また芸妓の育成、お稽古等伝統文化継承の重要な役割をも担っています。私達一般人にはあまり馴染みがありませんが重要な組合の様です。因にこの前の道を「見番通り」と言います。日頃は縁がありませんがこの日は「見番」を利用している客の態で見番通りをゆっくり歩いてみました。

2010年8月12日木曜日

勝海舟も修行した弘福寺


言問団子をたらふく食べて少し歩き出すと、夕日に照らされた重厚感漂う山門を発見した。名前を見ると「弘福寺」とある。境内に入り本堂を見ると更にその存在感に驚嘆する。頭の中で「これだけの造りでさぞや歴史あるお寺」と囁く。この「弘福寺」は隅田川七福神のひとつで、黄金に輝く布袋尊像が奉られていると言う。また若き勝海舟もこの寺で修行し、森鴎外の墓も関東大震災前まではここにあった。「凄い!」。境内で辺りを見回すとお約束の東京スカイツリーも見えている。古い建築物に新しいタワーの組み合わせだが、あまり違和感が無い。この寺、墨田区登録文化財でもあるそうだ。

2010年8月11日水曜日

花より言問団子


墨堤通りに戻り、暫く歩くと首都高速の高架と隅田川の堤が見えて来た。その手前に鉄筋2階建ての建物を発見「おやっ、あの暖簾は何だ?」と近づく。暖簾の右から「言問団子」の文字を認める。「あっ、ここが有名な言問団子だ!」と思わず叫んでしまった。「言問団子」の名前は子供の頃から知っていて、今はたまにデパート等で購入する事があるが、これがまた美味い。因に「言問団子」は江戸末期創業でその味は現代でも脈々と受け継がれ多くのファンがいる。店内に入ると「言問団子」と関わりのある多くの記念品が展示されている。その展示物のひとつに、中心に書かれた「花より団子」を囲む様に多くの文人達が署名した色紙を発見。「言問団子」は歴史ある店だと再認識。どちらかと言えば私も花より団子なので「お団子下さい。」と多めの団子をほおばる。暑い日の熱いお茶と団子の組み合わせは最高で疲れた身体がパワー一杯に回復しそうな気になる。また歩き出すぞ。

2010年8月10日火曜日

向島の路地尊。


鳩の街通り商店街の細い道からちょっと折れた処に「路地尊」なる井戸と木の樽(?)の一対なる物体を発見。みなさん「路地尊」てご存知ですか?「路地尊」とは家の屋根に降った雨を地下の雨水貯留槽にため、手押しポンプで汲み出して利用するシステムの事です。因みに路地尊は墨田区の一寺言問地区で防災まちづくりに取り組む『一寺言問を防災のまちにする会』によって考え出されました。路地尊には、「災害時には避難路になり、通常は地域の広場になる路地を尊ぼう」という、防災まちづくりの住民の思いが込められているそうです(墨田区資料より)。如何ですか?ありそうでなかなか無い宝物を見つけた様です。是非皆様一度お立ち寄り下さい。因に水が出るか確認しようとポンプを何回か動かしましたが水が出ませんでした。丁度通りかかったおばあさんが「水をだすにはこつがいるんだよ。」との事でした。有事の時に大丈夫なのかな?

2010年8月9日月曜日

昔の面影、鳩の街通り商店街。


白髭神社を後にして、墨堤通りに出て隅田公園方面に足を進める。途中以前から聞いていた下町のきび団子屋「吉備子屋」に立ち寄るも残念ながら休業日だったので無念の通過となる。右手に首都高速入口を認めここを左に折れた細い道の商店街に入り込む。ここが80年以上の歴史がある「鳩の街通り商店街」だ。この商店街は戦災を逃れたため、昭和初期の木造建築が沢山残っている。お風呂屋さんや古い商店の建物を観察するだけでも楽しい。また昭和20~30年代は赤線地帯としても知られていたので当時の様子を想像しながらこの細い道を歩いているととても不思議な気持ちにもなってくる。途中代々続いた写真館をけがの影響で廃業した写真師(敢えてこう呼ぶ)とのお話が出来たが、この古き商店街も徐々に様変わりして、ギャラリーや工房など若い人達の活躍する場所にも変わってきたと、ちょっと嬉しそうにそしてちょっと寂しそうに話してくれた。ちなみにこの商店街の動画を下町・界隈シリーズの「向島・業平・押上界隈」に入れるつもりですが、ちょっと忙しく未だ先になりそう。是非見たいという方は下記のユーチューブにアクセスして下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=OnejFLiKKoY

2010年8月6日金曜日

白鬚神社の黒人塚。


白髭神社へは向島百花園から徒歩で5分と掛からない。途中の古い家並みをウオッチングしながら境内に入る。もともとこの近辺はは緑の多いところだが境内は更に沢山の木で森を作り出している様だ。白髭神社は江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の分霊としてお祀りしたのが向島鎮座・白鬚神社の始まりだそうです。主祭神の猿田彦大神様は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示す国土開拓の神とされています。これにより人を正しく導くことが叶うと旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めてもいるそうです。境内を歩くといろいろな碑や塚が在りますが、まずビックリして注目したのが「黒人塚」。異人塚でなく何故黒人と細分しているのだろう?と考えてしまうのが教養の無い私でした。これは浜辺黒人という狂歌師の名前だったのです。相変わらず日差しが強烈に差し込んでいるが、境内は緑に守られているのでやさしい陰を作ってくれている。ここから歩き出すと強烈な日光の餌食になりそうだが、いつまでもここに居るわけにはいかない。大きく深呼吸をして境内を出た。

2010年8月5日木曜日

昭和と平成が混在する町並み。


向島百花園を出ると「白髭神社」の案内看板を見つけ歩き出す。少し歩き出すと昭和30~40年代へタイムスリップした様な光景が連続して目に飛び込んでくる。何処か懐かしい木造モルタルのアパート。自動販売機さえ無ければ昔のままのイメージの銭湯。夫婦2人で営む小さな町工場。「未だこんなところが残っていたんだ」と何故か妙に頷いてしまう。木造モルタルアパートの2階に続く階段付近には複雑に植物が寄生しているようで2階の一部屋を被っている様子だ。雨トイの一部が落下して屋根からぶら下がっている。「人が住んでいるのかな?」と階段から覗き込むと確かに誰かがここで生活をしている匂いが漂ってくる。「どんな人が住んでいるんだろう?」と無性に住人の正体を知りたくなる気持ちを抑えてゆっくりと歩を進める。「確かに昭和を歩いている。」心の中もう一度つぶやく。もう一度辺りを見回す。昭和の街のそれほど遠くない場所に東京スカイツリーを認めた。昭和と平成が混在するここ向島百花園界隈の町並。今度またゆっくりと訪ねてみようと言う気持ちになるが、今度来る時にはどのようにこの街が変わっているのかちょっと想像がつかない。「さあ白髭神社を目指そう」。

2010年8月4日水曜日

一時の涼を味わう向島百花園。


向島百花園に着いた。東向島の駅から以外と近い事を認識した。実は今回が初向島百花園でどんな庭園か?と期待しながら150円也の入園券を購入した。東武博物館と違ってこちらは以前より名前は知っていたがその沿革は知らなかった。案内板から向島百花園は仙台出身の骨董商、佐原鞠塢が「多賀屋敷」と呼ばれていた土地を入手し文化2年(1805年)に開園した庭園で360本もの梅の木を植えたことから「新梅屋敷」「花屋敷」とも呼ばれていたそうだ。文化6年頃より「百花園」と呼ばれるようになり、江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らが居たと言う。当初は梅園として営まれたが園主や文人たちの構想で詩歌にゆかり深い草本類を多数栽培し園内には多数の野草が植えられて特に秋の七草その他、秋の草花の美しさで知られた。また池泉、園路、建物、30余基の石碑などを巧みに配した地割でも有名との事だ。相変わらず日差しが強いが緑が多く、木陰もあり涼しく感じる。丁度朝顔の展示準備をしているボランティアの方々が水やりに精を出しておられ夏の日の光景をスナップする。園内を歩くと案内板の通り、詩歌を記した石碑が多く点在していて、その形や大きさの違いも認めて飽きがこない散策を楽しめる。ただ石碑の詩歌をそのまま読む事の出来ない自分にちょっとがっかりする。散策に手頃な広さの向島百花園を出て次は何処を目指そうか・・・。

2010年8月3日火曜日

これが記憶の『特急列車・けごん』。


下町・界隈シリーズの「向島・業平・押上界隈」の取材で東武伊勢佐木線の東向島駅に降り立った。午後三時を過ぎているのに強烈な日差しは容赦なく全身を攻撃し、それに反応するかの様に「もう勘弁して下さい」と汗が沢山の白旗を揚げている。今年の夏はあまりにも暑い夏だ。気を取り直し「よ〜し、頑張るぞ!」と歩を進める。『何だ!これは!』子供の頃の記憶にある『特急列車・けごん』の車体が目に飛び込んで来た。残念ながら汽車・列車・電車の種類には詳しくないがこの車体には記憶がある。調べてみると、これは1720系DRC型で1960年に東武鉄道が投入した浅草〜東武日光間を走った当時のエース特急で営業最高速度が110Kmだったそうだ(間違っていたらごめん)。問題は何故こんなところにこんな列車があるかである?実はここ東向島駅に隣接して東武博物館があったのだ。同博物館のホームページの挨拶を流用すると『東武鉄道は1897(明治30)年の設立以来、人とものを乗せ、夢と文化を運ぶネットワークとして、今日まで発展してきました。その創立90周年を記念して、1989(平成元)年5月20日にオープンしたのが、「東武博物館」です。』とある。更に『館内を8つのコーナーに分けて構成。東武鉄道の歴史や文化・役割を紹介しています。郷愁を誘うダイナミックな蒸気機関車をはじめ、実物車両や記念物などの貴重な資料を展示している一方で、交通のしくみを実際に見て、触れて、体感できるようシミュレータや実物機器を設置しました。また、博物館の真上を走行する車両を至近距離から観察できる、立地を活かしたコーナーも設けた、まさにリアルタイム感覚で楽しめる体験型のミュージアムです。』とある。東京に長く住んでいたのに、なんて無知だったろう、今日のこの日までこの存在を知らなかった。「東武鉄道さんごめんなさい」今度、時間のある時ゆっくり見学に来ますから。後ろ髪を引かれる思いで向島百花園に向かって歩き出す。

2010年8月2日月曜日

400m超えの東京スカイツリー。


みなさん、2012年に完成する東京スカイツリーの高さを知っていますか?「634mですよ!」本当に高いですね。先週の新聞で工事で暫く足踏みしていた高さが400mを超えたと報道されていました。昨日400mの高さを確認しようと出掛けたついでに東京スカイツリーに立ち寄って来ました。日曜という事もあり現地は人、人、人。本格的に一眼デジタルで撮る人、コンパクトデジカメで撮る人、携帯電話で撮る人と皆さん一様にカメラで400mを記念撮影している。ただこの日の東京地方一面にガスが掛かっている様子で、撮影した東京スカイツリーの下層部分と400m付近ではガスの濃度が違うらしく上層部はぼやけて見える。よく高い山の麓に立つと雲で頂上が見えない事がある。これから更に高層化するタワー、建築物にもこの様な現象が予想される。634mになったら天気の悪い日はてっぺんが見えないのは当たり前になってしまいそうだ。因にスカイツリー工事現場の下層には現在の高さがリアルタイムで表示されている。「408m」。今度訪問する時は何メートルになっているのだろう。