2010年7月20日火曜日
湯島天神と切通し坂。
上野、御徒町方面より春日通りで湯島天神を目指すと、天神下から湯島天神にかけてなだらかな坂が続く。この坂が湯島の台地を切り開いて出来た切通坂と言われる。はじめは急な石ころの道だったが明治37年に上野広小路〜本郷三丁目間に電車が開通して緩やかになった。この坂の途中に坂の案内板と、かつて本郷三丁目付近の「喜之床」(理髪店)の2階に間借りしていた石川啄木の詩の碑がある。碑には「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上がりしも 勤めなればかな。」と記されている。石川啄木は当時、朝日新聞社の校正係としての定職を得て喜之床で久し振りに家族揃っての生活が始まった。しかし生活との戦い・嫁・姑のいさかいなど失意の生活が続いた。
「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」
「解けがたき 不和のあひだに身を処して ひとりかなしく今日も怒れり」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて 妻としたしむ」
石川啄木の最もすぐれた作品の生まれたのは、ここの喜之床時代、特に後半の一年間であったといわれる。喜之床での2年2か月の生活の後、小石川5丁目の宇津木家の貸家へ病気の身を移した。石川啄木が夜遅くこの切通し坂を重い足で上がって行く姿が何となく想像できる様だ。
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