2010年7月30日金曜日

お気に入りの天ぷら天庄。


鳥つね、古式蕎麦、ビストロ・タカときたらこの店も紹介しなければいけないだろう。湯島天神の鳥居より見える距離にある「天ぷらの天庄」だ。私は天ぷらが好きでいろいろなところで食べているけど目下一番のお気に入りの天ぷら屋さんがこの店。明治創業で素材にこだわり、しっかりと素材の味を出して揚げてくれるこの店にはよくお客さんを連れて行く。お客さんと一緒の時はちょっと奮発して3000円の昼定食(写真)をオーダーする場合が多い。この定食を食べた皆さん例外なく「美味い」と言う。以前ランチのお手軽メニューにボリューム一杯の1500円の天丼があったが、どういう訳か1000円の天丼しか無くなってしまったのがちょっと残念(ちょっと内容が見劣りする)。因にこの店、本館と別館があり更に上野店があるが、ある人に言わせると板さんにより多少の甲乙があるという。私も経験があるが、たまに「今日はあまり美味しくない」感じる事がある。やはり板さんにも好不調の波があるのかもしれない。

2010年7月29日木曜日

湯島天神から徒歩1分。ビストロ・タカ。


食べ物の話ばかりで申し訳ないのですが、湯島天神門前にビストロ・タカと言うフレンチの店がある。写真を見てもお分かりでしょうが建物がとてもかわいいお店だ。この店なら昔から知っていると言う方もいるかも知れませんが、以前はビストロ・タントマリーと言う店でした。今のシェフに変わってまだ一年くらいの気がする。以前のスタッフには申し訳ないけど料理はもちろんスタッフの対応もとても良くなったと私は大歓迎。シェフはフランス各地を廻ってフランス郷土料理の腕を磨いた実力者で、ビュッフェスタイルの食事会も開催するなどアイデアマンでもある。まずは味見に最適なのがランチ時に行ってみる事。ランチメニューはシンプルランチが1500円、コースが2500円と3500円の2つある。ちょっと気張って迷わず3500円コースをオーダーしてみて下さい。絶対に納得の味と料理です(量もある)。この料理を食べて気に入ったら今度は夜に訪問して下さい。電飾された店が更に魅力的に感じられるとともに湯島天神界隈の夜がこんなに静かで落ち着くところと認識されると思います。

2010年7月28日水曜日

古式蕎麦とは何ぜよ?


湯島天神から鳥つねに立寄り、妻恋坂に向かって歩く事5〜6分。左手に珍しい「手打古式蕎麦」と言う看板を発見。「古式蕎麦の古式とは何ぜよ?」(今流行の龍馬風)とつぶやきながら入店。店は決して大きくないがいかにも蕎麦屋さんらしい。店一番手前のテーブルに着席しその理由を問う。古式蕎麦とは甘皮をそのまま混ぜて打つ蕎麦の事らしい。一般的なもりそばを注文し出て来たのが写真の蕎麦だがやけに蕎麦が黒い。そばつゆに付け口に運ぶとなかなか腰のある懐かしさえ覚える味で「美味い!」。因にこの古式蕎麦を出す店は日本中にもそれほど無いと聞く。湯島天神に行かれた序でに是非立ち寄られる事をお勧めします。

2010年7月27日火曜日

湯島天神門前の親子丼屋!


湯島天神門前近くに「鳥つね」と言う親子丼の店がある。敢えて親子丼と言ってしまったが正確には大正元年創業の由緒正しき鳥料理専門店だ。残念ながら私はここで親子丼しか食べた事が無いので、他の料理を食べるまでは頑なに「親子丼屋」と呼びたい。この親子丼がめちゃくちゃ美味い。卵と鳥肉だけしか使っていない筈なのに何で他の店と違うのだと唸ってしまう。店の人の話だとこだわりの卵と鳥肉を使っているからだと言う。また卵は割ってから2〜3回しか、かき回さないなどといろいろな噂を聞く。この味を知れば上親子丼で1500円の値段にも納得してしまう。またここではお土産用の卵を10個1000円で売っている。先日訪問した時このお土産卵を買い帰宅。翌日、炊きたての温かいどんぶりご飯の上に豪勢に醤油かけした卵2個を流し込み「ガバガバ」と口の中にかき込む。これこそ日本人!「美味い!」「旨い!」どちらの字にも合う美味さだ。そんな訳でその日は一日幸せな気持ちで過ごす事が出来た。(なんて単純なんだろう)

2010年7月26日月曜日

湯島天神の屋台


湯島天神境内には幾つかの屋台が設営されている。その数は初詣やうめ祭りの時などは数えきれぬほどである。昔、屋台と言えば金魚すくい、綿飴、お面、ヨーヨー、ハッカパイプなどの記憶があるが、今は圧倒的に「食べ物系」が多く見受けられる。中にはテーブル、椅子を用意し、鮎の塩焼き、サザエのつぼ焼き、ステーキなど本格的なものを食べさせるのもある。昔の屋台は子供が対象だったが、現在は対象が大人になってしまったのが理由かもしれない。確かに子供の小遣いと大人の飲み代では大きな開きがある。湯島天神ではイベントの無い通常の時には屋台が5〜6店立っているが、流石にこの時は本格的な食べ物屋台は無い。ギンナン、七味唐辛子、タイヤキなど比較的スタンダードな屋台だ。このくらいの方が何となく落ち着いて境内の中に溶け込んでいる様に思える。

2010年7月23日金曜日

天神女坂の当たりそうな占い師。


湯島天神境内から女坂を下りて行くと、階段の一番下のスペースにとても品の良い初老の占い師が小さなテーブルと丸椅子を出している。冬の寒い日も、夏の暑い日にも帽子をかぶり姿勢よくお客さんを待っている。私はあまり占いを信じるタイプではないが、この占い師の前を通るたびに「占なってくれますか?」と声を掛けたい衝動に駆られる。その姿は見るからに紳士であり、その顔は相談者の人生の何事をも見抜いてしまいそうな表情が滲み出ている。(何でこんなに褒めるんだ?)噂では「当たるらしい!」いや当たらなくとも話をするだけで気持ちが落ち着きそうだ。ある時は中年のサラリーマン、ある時は主婦、もちろん湯島天神という場所柄に受験を控える若い学生なども多く占なってもらっている。今度この前を通ったとき、もし空いてたら占ってもらおう。ただそれまでに何を占なってもらうかを決めておかなければ・・・。

2010年7月22日木曜日

湯島天神のガス灯。


湯島天神の境内を歩くと、多少違和感のある街灯を見つける事が出来る。街灯に近づき、よ〜く注目すると「オヤ?」と思う。内部に電球や蛍光灯が無い。それもそのはずでこの街灯はガス灯だった。ガス灯は文明開化のシンボルで明治の時代を象徴するもの。当初、湯島天神内のガス灯は五基あった。ただ今は一基となっているが屋外のものとしては都内唯一のもので大変希少。是非一度見ておく価値はありそう。因に有名な「湯島の白梅」の三番に『青いガス灯 境内を 出れば本郷 切り通し あかぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の 上野山』とある(案内板から)。いいですね。古き良き時代は、天神下の木造家屋から三味線の音でも聞こえそうな雰囲気だ。(天神下には実際、三味線屋さんがあります)

2010年7月21日水曜日

天神男坂と天神女坂


湯島天神へ続く坂は3つある。春日通りからの夫婦坂と御徒町方面からの天神男坂に天神女坂だ。各々個性的な階段だが私は個人的に38段の急な天神男坂が一番好きな坂である。荷物を沢山持っている時などはこの坂の下に立つと、大きく深呼吸をして心の中で「さあ上るぞ!」と気合いを入れる程である。ただ登りきった時の達成感が何とも言えないものがある(小さい)。階段を上りきったところが境内で、ここから階段を見下ろすと上野・御徒町の街が遠くに見えて、本郷台地の上に立っている事を実感する。それに比べ天神女坂は階段の途中に足休みもあり緩やかな階段である。ただ今の時代の男女を見るとこの名前は如何なものかと思ってしまう。何年かすると男坂と女坂の名前が入れ替わってしまう可能性もありそうだ。(写真左が男坂、右が女坂)

2010年7月20日火曜日

湯島天神と切通し坂。


上野、御徒町方面より春日通りで湯島天神を目指すと、天神下から湯島天神にかけてなだらかな坂が続く。この坂が湯島の台地を切り開いて出来た切通坂と言われる。はじめは急な石ころの道だったが明治37年に上野広小路〜本郷三丁目間に電車が開通して緩やかになった。この坂の途中に坂の案内板と、かつて本郷三丁目付近の「喜之床」(理髪店)の2階に間借りしていた石川啄木の詩の碑がある。碑には「二晩おきに 夜の一時頃に切通しの坂を上がりしも 勤めなればかな。」と記されている。石川啄木は当時、朝日新聞社の校正係としての定職を得て喜之床で久し振りに家族揃っての生活が始まった。しかし生活との戦い・嫁・姑のいさかいなど失意の生活が続いた。
「はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」
「解けがたき 不和のあひだに身を処して ひとりかなしく今日も怒れり」
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひきて 妻としたしむ」
石川啄木の最もすぐれた作品の生まれたのは、ここの喜之床時代、特に後半の一年間であったといわれる。喜之床での2年2か月の生活の後、小石川5丁目の宇津木家の貸家へ病気の身を移した。石川啄木が夜遅くこの切通し坂を重い足で上がって行く姿が何となく想像できる様だ。

2010年7月17日土曜日

「CAPA」に下町・界隈シリーズ記事紹介。


湯島天神紹介に割り込みです。カメラ総合誌「CAPA」8月号のニュースジャーナルコーナーで我がオフイスが運営する「web下町・界隈シリーズ」が写真入りで紹介されました。この「web下町・界隈シリーズ」が何故開設されたかをまじめに説明しますと、現在中高年を中心に東京各所を散歩する事が社会現象となっていて、これらの散歩、散策コースを紹介した雑誌、書籍が多く出版され、人気の街にはガイドブックとカメラを手にした人々を多く見受ける事が出来ます。特にこれらの現象は古い歴史が残る東京・下町に顕著で、2012年春に完成の東京・向島、東京スカイツリーにより更に人気に拍車がかかることが予想されます。そこで人気の東京下町地域を「界隈」と言うキーワードで括り、(1)本郷・湯島(2)谷中・根津・千駄木 (3)向島・業平・押上 (4)浅草・上野 (5)秋葉原・浅草橋の5つの地域に分け、各々専用のドメインにより、その街の歴史、建造物、お店等の詳細な情報をwebで紹介してしまえと言う事なのです。更に、今後増加が予想される外国人観光客の情報源にもなる様にwebの英語、中国語化も計画に盛り込んでいるのでした。この第1弾として「本郷・湯島界隈」、第2弾で「谷中・根津・千駄木界隈」を開設致しました。今後も順次各界隈を開設、紹介する予定です。界隈シリーズのwebアドレスは下記の通りとなります。ご期待下さい。CAP誌も是非見て下さい。

『本郷・湯島界隈』(開設済み) www.hongo-kaiwai.com
『谷中・根津・千駄木界隈』(開設済み) www.yanesen-kaiwai.com
『向島・業平・押上界隈』(未開設) www.mukoujima -kaiwai.com
『浅草・上野界隈』  (未開設) www.asakusa-kaiwai.com
『秋葉原・浅草橋界隈』 (未開設) www.akiba-kaiwai.com

2010年7月16日金曜日

オフイスより徒歩5分の湯島天神。


今回から我がオフィスより徒歩5分の湯島天神の話をしたいと思います。湯島天神は正式には湯島天満宮と言い、旧称湯島神社。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社(神社本庁が包括している一部の神社のこと)となっている。古来より江戸・東京における代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているため受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れます。因に正月三が日は多くの学生の参拝の列が延々と数キロにも及びます。また湯島天神で有名なのが「梅」。この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は戦中時の歌として大ヒットしました。新春に開催される「梅まつり」には多くの人々が訪れます。因に湯島天神は本郷台地の立ち上がりの上に位置するため、上野や御徒町方面から訪れると、男坂、女坂、夫婦坂のどれかの坂の石段を登らなければならない。もちろん本郷三丁目駅で降りて湯島天神を目指すと坂を登る事はありませんが、風情を楽しむならば断然、上野、御徒町方面からの見上げる湯島天神の景観をお勧めします。

2010年7月15日木曜日

仲見世柳通りの人形達。


浅草・伝法院通りの商店街は江戸の町並みを再現した店作りを目指し、平成17年に統一された看板や外観が完成し一躍多くに観光客に注目される通りとなった。ある商店の屋根にはねづみ小僧が千両箱を抱えている人形なども配し子供達の注目も浴びた。因にこの伝法院通りとは、雷門から仲見世を通り浅草寺手前の辺りから左に折れた道の事を言いますが、今回はこの通りではなく右に折れた「仲見世柳通り」の紹介です。注目される伝法院通りに比較し地味な感じがする通りでしたが、今回の訪問で「ビックリ!」通り沿いの各商店も昔風の店造りに代わり2階部分には各種人形がねずみ小僧に負けじと配置され目立つ事。目立つ事。これで仲見世により左右に隔たりのあった伝法院通りと仲見世柳通りが見事一体感が生まれ観光客の注目が更にアップすると思われます。昔の浅草は大変な繁華街として繁盛していましたが、一時観光客も減少してとても寂しい感がありました。しかし伝法院通り商店街に代表される積極的な街リニューアルや人力車の導入による新たな観光方法の確立など、多くの努力が実って今は昔の様に沢山の観光客が溢れていると見受けられます。地元の人達が努力する浅草は今後も観光地として更なる発展をすると予測できます。

2010年7月14日水曜日

思い出の浅草・葵丸進の大かき揚げ。


子供の頃のある時期、浅草の近くに住んでいた事から浅草はとても思い出のある町でもある。浅草寺はもちろん、新世界、デンスケ劇場、花屋敷等思い出すと当時の情景が頭に浮かぶ。そして子供ながらに大変記憶に残っているのが、天ぷらで有名な葵丸進の「大きなかき揚げ」だ。確かエビだのイカだの具が沢山入っていた記憶がある。浅草には葵丸進の他にも三定、大黒屋など古くからの天ぷら屋がたくさんあるが、こんなビックサイズのかき揚げを出す店は他に無い。ほおずき市の帰り、ほおずき鉢片手に丸進に入店。メニューを見ると当時の大きなかき揚げは「金龍かき揚げ丼」(2580円)である事が判明する。別メニューのみそ汁(200円)と一緒に注文。10分程して運ばれて来たのが写真。「何だこれは!」子供の頃の記憶で大きいと思っていたのが、大人になってみるとそれほどの大きさでは無かったなどと言うことは結構あるが、このかき揚げはやっぱり大きい!写真を横から撮れば厚さも判明したのにちょっと残念。何故、丼ぶりと一緒に取り皿が運ばれて来たのが判明。まずはかき揚げを取り皿で小分けしなければ口に運べない。ただ子供の頃と違ったのは、油を控える年齢でこの大きさのかき揚げを1個食べるのは大変。そして当時はもっとエビやイカ等の素材の味が活かされていた様な気がした。流石にギブアップ。

2010年7月13日火曜日

無念。浅草寺の大提灯。


徳川家康が江戸幕府を開いてから江戸の人口が増え発展した。これにより浅草寺への参拝客も増加し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられこれが浅草・仲見世の始まりとなりました。今、浅草寺を参拝しようとすると仲見世入口の雷門(風雷神門)を通り、お土産屋等で賑わう仲見世を抜け宝蔵門をくぐり神社本殿を目指す順序が一般的です。皆さんちょっと記憶を辿って欲しいのですが、雷門の下にある大きな提灯を覚えていますか?この提灯は数十年おきに新調されますが重さは700Kg以上もあるビックサイズでこの下で記念撮影をする人々が沢山います。そしてもうひとつの大提灯が宝蔵門にある「小舟町」と書かれたものです。これは日本橋・小舟町奉賛会から代々奉納されたもので、現在の大提灯は忘れもしない2003年に江戸開府400年を記念して194の会社や個人からの寄付500万円で新調されたものなのです。何故忘れもしないかは、我がオフイスは1999年11月に日本橋・小舟町に創業され2003年の大提灯を新調する時には奉賛会より1口5万円の寄付打診があったにも拘らず当時は創業間もなく、とても5万円の寄付をする事が出来ずに見送ってしてしまったのです。頭の中には何とか寄付を!との気持ちが強かったのでこの大提灯の下を通るたびにこの記憶が甦ります。写真下は大提灯の裏側ですが寄付をした方々の名前が順番に記載されています。この時5万円の寄付ができたらここに我がオフイスの名前が記されていたのでした。

2010年7月12日月曜日

四万六千日・浅草寺のほおずき市。


7月9、10日と「四万六千日」に合わせ浅草・浅草寺で「ほおずき市」が開催された。因にこの2日間に浅草観音をお参りすれば、四万六千日分お参りしたのと同じ効果があるとも言われ「ほおずき市」はこの両日に合わせて毎年開かれる。そもそも、ほうずきは草丈60~80cm位の多年草で、この開花時期に合わせて日本各地でも「ほおずき市」が開かれている。ただ江戸時代から続いている浅草寺の「ほおずき市」はあまりにも有名で毎年60万人にのぼる人出があると聞く。そんな「ほおずき市」に2年振りに行ってきた。参議院選挙の前日と言う事もあり、選挙演説を聴く人々と参拝客が交錯し、人、人、人の状態。浅草観音にお参りしてほおずき市の会場に足を踏み入れると、威勢の良い賑やかな掛け声が各所から聞こえてくる。沢山のほおずき屋さんが並んでいるが、何処も同じ様に竹ひごの持ち手を付けた鉢にひと株ずつ植えられ協定価格の2500円で販売されている。店の間を抜けるとカメラマンの多さに気付く。デジタル一眼レフを構えたおじさん、おばさんにお兄さん、お姉さんと年齢層の幅は広い。若いお兄さん、お姉さんの存在にちょっと嬉しくなる「まだまだ写真の趣味は健在だ!」。気を良くして、ひと鉢買おうと声をかけると閉店間際だったのか、ほおずきと風鈴をセットにして2000円でいいと店員さん。ここで協定価格破れたり。ちょっと気を良くしてほおずき片手に帰路につく、ただちょっと残念なのが鉢がプラスチック製だった事。江戸時代から続いているほおづき市、いつからプラスチック鉢になったか気になってしまった。

2010年7月10日土曜日

湯島の魚が美味い店。


昨夜は湯島天神の近くで湯島2丁目の住宅街にある「旬菜なんてん」に行った。夜になるとこの周辺は人通りも少なくなり、意識して捜さなければ見つからないお店と思う。湯島の住宅地で35年も営業を続けているこの店の一番の売りは、長崎出身のマスターの「こだわりの魚料理とおいしいお酒』だ。私もマイブーム状態で、ここのところ何回か続けて訪問している。まずは冷たい生ビールとお通しにすし2貫が出て、あとはお好みの魚を注文。昨夜は殻付き牡蠣とお刺身盛り合わせ、鮎の塩焼き、オコゼの唐揚げと魚づくし状態。そして自家製らっきょうに茶そばで締める。季節になるとふぐ料理もあるとの事で注目。店を出ると普通の住宅地を抜け本郷方面に向かう。空には白い雲が家路を急ぐ様に移動して行く。明日もまた雨の様だ。

2010年7月9日金曜日

三四郎の三四郎池と前田家の心字池。


今回は東大構内の緑に囲まれた三四郎池を紹介します。加賀藩前田家が大阪の役後にこの一帯を将軍家から上屋敷として賜り、2代藩主・前田利常はこの園地を大築造した。利常の死後は4代藩主・綱紀が更にこれを補修して「江戸所諸候邸の庭園中第一」と称せられた。この庭園を「育徳園」と命名した。園中の八景、八境の勝があってその泉水・竹山・小亭等は数奇をきわめたとさているが、この池の形が「心」という字をかたどっていて正式名称は「育徳園心字池」と言った。それがなぜ「三四郎池」と呼ばれているかは、夏目漱石の小説『三四郎』を読むと納得する。主人公の三四郎は熊本から東京帝国大学への入学のために上京した。そしてこの心字池で初めてヒロイン美穪子と出会ったのだ。この出会いから「三四郎池」と呼ばれる様になる。三四郎は美穪子に恋慕するがその想いは叶わず美穪子は別の人と結婚してしまう。この物語は三四郎池はもちろん、本郷の櫻木神社や中央教会、西片等が登場するので「三四郎」を読んだ後にこれらの場所を訪ねると、また違った感激を味わう事が出来る。今、三四郎池は東大関係者のオアシスだけでなく近隣から訪ねる一般人にとっても水と緑を満喫できる場所として注目されている。そしてまさかこんな場所に写真の様な小さいが滝まであるとは想像もつかないと思う。話は若干それますが、私は「三四郎」を書籍で読むのははもちろん、7時間以上掛かるオーディオブックでも聞きましたがオーディオブックは朗読する方の声質等によってまるで違う三四郎と美穪子が登場してしまい、自分で想像を膨らませる事の出来る書籍がこんなにも良いものだと、この「三四郎」と言う小説で気づいた次第でした。

2010年7月8日木曜日

吾輩は東京大学の猫。


東大構内を歩いているといろいろな生き物に遭遇する。今までに出会ったのはハクビシン、大小のヘビ、カエル、コウモリにキジバト、カラス等の鳥類等だが一番気になる存在がネコだ。東大構内には多くのネコが住み付いている。昼間はどこに隠れているのかそれ程の個体数を確認できないが夜になるとどこからともなく姿を現し場所毎にグループを作りたむろしている。総合図書館近くに6匹、医学部図書館近くに3匹、弓道場近くに3匹、安田講堂近くに3匹、工学部広場に2匹と、その数は20匹以上と想像できる。ただこのネコ達の生い立ちは悲しいもので、どれもみな捨てネコなのです。外ネコの寿命は短いと言われるが構内のため満足なエサも確保出来ずに更に短いと想像できる。短いネコ生を終えると、また人間の勝手で捨てられその数は一向に減る様子も無い。ボランティアの方々が捨てられたネコを捕まえ去勢手術をしたりエサを与えたりしているが、ペットを飼う人間の良心が変わらない限りこの繰り返しは永遠に続くといえる。

2010年7月7日水曜日

東京大学、ヒポクラテスの木。


東京大学を話題にして書くとどうもまじめになってしまう様ですがご勘弁下さい。今回は「ヒポクラテスの木」についてです。龍岡門から東京大学に入り1〜2分も歩くと右手に大学病院を認めます。そのとき徐に顔を左に向けると大きな木を見つける事が出来ます。この巨木こそ「ヒポクラテスの木」なのです。別名スズカケノキとも言います。木の根元の案内板を見ると「ギリシャのコス島のコスの町に巨大なスズカケの老木があって、ヒポクラテスの木とよばれている。コスで生まれたヒポクラテスがその親木の下で医学を教えたという。この老木の種子をコスで育てた若木が、1972年1月17日アテネのDr.Thomas Doxiadisから緒方富雄名誉教授へ贈られてきた。教授はそれを4年ちかくも手もとで育て、このたび特にこの医学図書館にと指定して寄贈された。ヒポクラテスゆかりの地で育った株がここで茂る機縁を与えられた緒方名誉教授と。その株を教授に贈られたDr.Doxiadisに深甚の謝意と敬意を表してこのことをしるす。 1975年11月29日 東京大学医学部」とある。こんな案内板を見てから改めてヒポクラテスの木様(ここで様になる)を見上げるととても由緒正しきお姿に後光が射しているかの様で感激!感激!でした。東京大学の建造物、樹木、はてはマンホールまでもがみな歴史が詰まっていて、その歴史を理解して構内散策をすると何倍も楽しさが膨らみます。

2010年7月6日火曜日

ロックフェラー財団と東大総合図書館。


今回は東京大学で一番大きい図書館の「総合図書館」を紹介します。蔵書109万冊の規模だけでなく、朝8時半から夜の10時半まで大変長く開館(通常)していて多くの東大関係者の利用があります。同図書館は明治10年の開学とともに開設されましたが大正12年の関東大震災時に炎上してしまいました。震災後多くの国々から多くの図書の寄贈を受けましたが、この時ロックフェラー財団より400万円の寄付の申し入れがあり、新図書館の建設が決定しています。ロックフェラーって凄いんですね。その後戦災の影響も無く今に至りますが、夜の散歩時に明るくなった図書館内部を見ると、大きなシャンデリアが幾つも見えます。きっとこれもロッフェラー財団のお陰であつらえる事が出来たと想像するとちょっと不思議な気分がします。この光景は昼間の散歩では味わえない場面でもあります(残念ながら一般人は総合図書館への入館はできません)。

2010年7月5日月曜日

東大・安田講堂地下食堂。


ある程度年配の方が東大・安田講堂をと聞くと、講堂に立て籠った学生達がこれを排除しようとする警察機動隊に対して火炎瓶や投石で応戦するテレビのシーンを思い起こすのも多いと思います。あれは1969年の出来事で安田講堂他を占拠していた全共闘を大学からの依頼により警察が封鎖解除を行った事件でした。長かった様に感じますが実は2日間の出来事で当時、日本国民はテレビに釘付けになってもいました。今はもちろん安田講堂は何事も無かったかの様な静けさに包まれていますが、実はこの講堂前の広場地下では多くの人間がうごめいているのでした(サスペンス風)。何の事は無いのですがこの地下には巨大食堂があるのです。写真を見て頂けるとその規模が解ると思いますが東大最大の食堂で一般の方でも利用可能。メニューも各種定食、カレー、麺類ありで選ぶのに苦労しそう。そして何よりも嬉しいのがその価格の安さ。東京大学訪問の記念に是非一度ご利用をお勧めします。ただし定食の【L】は食べない事。ご飯が超大盛りで体育会系御用達です。※赤門ラーメンが美味いとの噂有り。

2010年7月2日金曜日

魅力的な夜の東京大学!


先に東京大学の夜の様子を紹介しましたが、今回はその2回目です。東京都内でこれほど広大な敷地に古くからの歴史的価値のある建物が林立し、樹木が多く特に巨木のある場所は少ないと思います。土日も自由に入構出来ますし外来者に食堂やコーヒーショップも解放していますので、一度東大生と同じ学食を食べておくのも話の種になると思います。さて東大は夜になるとその顔は一変します。歴史ある建造物は更に重厚感が漂い、樹木達はまるで夜を待っていたかの様に存在感を増します。ただ私が通っていた一般の大学と東京大学が違うのは「東京大学は24時間眠らない大学」と言う事です。週に数回は中央図書館は22時まで開館していて、各研究室は夜遅くまで、または一晩中明かりが灯ります。正門と赤門の間に完成した福武ホールなどはパソコンに向かう多くの学生が終電の時間を過ぎても沢山います。因に赤門の閉門時間は22時ですが正門は24時間空いています。そんな夜の大学構内を愛犬を連れて毎日の様に散歩します。この散歩で今更の様に気づいた事は東京都心でも四季を感じられる事です。冬は雪の静けさや寒さを感じ、春は植物達の芽吹きを覚え、夏はセミの声を聞き、秋は黄色、赤色の風景を認めます。こんな当たり前のことがこの東大構内を散歩する様になって初めて気付いた様に思えます。今は梅雨の季節です。写真(中)のあじさいは今年も元気に梅雨を演出してくれました。写真(上)は校舎を抜けるアーチ通路ですがこんなに魅力的な姿を晒してくれています。写真(下)は眠らない東大のために安田講堂脇にあるコンビニも一緒に起きています。東京大学の夜は常時、警備員の方が構内を見回っていますが、ご迷惑をかけない様に8時頃までは比較的構内散歩を楽しむ事が出来ると思います。この感動を皆様と共有したいと思います。是非お出かけ下さい。※今回の写真も携帯電話でした。ごめんなさい。写りの良いカメラを持参して下さい。

東京大学構内の地図や情報はweb「ワイズ本郷界隈」をご利用下さい。 http://www.hongo-kaiwai.com/

2010年7月1日木曜日

根津で讃岐うどんを。


薮下通りを戻り根津神社・表参道口近くの讃岐うどん店「根の津」に立ち寄る。ここはいつもお客さんが店の前に列を作っていて、列に並ぶ事が嫌いな私にとっては「絶対に入る事のできないお店」と諦めていたが今日は列が無い。店に入ると7〜8人のお客が居るが狭い店なので相席になる。隣を見ると中年のおばさんが美味そうにざるうどんを、前を見ると学生風の2人が温かいぶっかけうどんを食べている。学生風の2人は若いのにうどんを1本づつ口に運んでゆっくり食べているが、中年のおばさんは辺りを気にする様子も無く、ずるずると食べる。食べる。「おばさんの勝ち!」美味そうに食べるのはおばさんが一枚も二枚も上手。店員に「あれと同じのを下さい。大盛りできますか?」とオーダー。待つ事10分位で運ばれて来たのが写真のうどん。手打ちのうどんはコシがあって美味い。またたれは私の好きなゴマだれで美味さが倍増する。ただうどんの長さがやけに長く感じられちょっと口に運び難い。「おばさんは大したものだ」と2度目の感心を覚える。因に後でわかった事ですが、大盛りは2玉分あって150円増しと良心的。温かいうどんと冷たいうどんの2種を一緒に食べられるメニューもあったのでした。教訓として如何に美味そうに食べるおばさんの姿を見てもそれに影響される事無くメニューを見るでした。今度は温かいのを食べよう。